はじめに

川越が「小江戸」と呼ばれる所以とは?

「小江戸(こえど)」という言葉を聞いたとき、あなたはどんな風景を思い浮かべるでしょうか? 黒漆喰の蔵造り、石畳の通り、どこか懐かしい町並み。そして、そこを行き交う浴衣姿の観光客と、地域に根ざした老舗の商い。埼玉県川越市は、まさにその「小江戸」の名にふさわしい、江戸情緒を色濃く残す町です。

川越が「小江戸」と呼ばれるようになったのは、単に古い建物が残っているからではありません。江戸時代、川越藩の城下町として繁栄し、経済・文化の両面で江戸と密接な関係を築いていたことが背景にあります。とくに、川越藩主・松平信綱のもとで大規模な城と町の整備が行われ、江戸との結びつきが強化されました。さらに、江戸への舟運の拠点となった新河岸川の存在により、物資と文化の流れがこの町に集中するようになりました。

明治・大正を経てもなお、川越はその町割りや伝統的な建築を保ち続け、昭和の戦火を免れたこともあり、今に至るまで歴史的景観が奇跡的に残されています。現在でも、蔵造りの商家や「時の鐘」、菓子屋横丁など、江戸から続く空間の記憶が町の随所に息づいています。

本サイトでは、川越の魅力を「観光名所」としてだけでなく、都市の成り立ちや空間構造といった視点から深掘りしていきます。「なぜこの街並みが残ったのか」「どうしてこの場所に人が集まるのか」といった素朴な疑問を、地理学的・歴史的に読み解くことで、川越という都市の奥行きを知る旅に出かけましょう。

あなたの知らなかった「もう一つの川越」が、きっと見えてくるはずです。
小江戸川越

川越市の概要(地理、気候)

川越市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、約35万人が暮らす中核都市です。今では年間700万人以上もの観光客が訪れる、県内有数の観光地として知られています。

街の中には神社やお寺、歴史的な建物や史跡が点在し、まち歩きするだけでもタイムスリップした気分を味わえます。

地形的には、武蔵野台地の東北のはしっこにあり、土地は立川ローム層や武蔵野ローム層と呼ばれる火山灰に覆われています。市の北〜東側には、入間川や荒川といった大きな川が流れ、昔から自然と人の暮らしが密接に関わってきたエリアです。

川越は一年を通して比較的穏やかな気候に恵まれています。年間の平均気温は約15.7℃、降水量はおよそ1350mm、湿度は70%ほどと、住みやすいエリアです(出典:2016年版「統計かわごえ」)。

…とはいえ、最近では東京都心のヒートアイランド現象の影響もあって、夏の暑さがかなり厳しくなっています。真夏には気温が38℃近くまで上がる日もあり、まさに“灼熱”という感じです。夏に川越観光を計画している方は、こまめな水分補給や日陰での休憩をお忘れなく!

冬はというと、雪がまったく降らない年も多く、降っても2〜3日程度。ただし、数年に一度くらいの頻度で10cm以上の雪が積もることもあるので、冬に訪れる予定の方は天気予報をチェックしておくと安心です。

川越市の歴史

歴史をさかのぼると、鎌倉時代には源頼朝に仕えた河越氏がこの地を治め、武蔵国(今の東京・埼玉あたり)の中心的な役割を担っていました。
その後、室町時代には戦国武将・太田道灌とその父・道真が川越城を築き、今の川越の街の中心が形成されていきます。

江戸時代に入ると、徳川家康の関東支配にともない「川越藩」が誕生。江戸の北を守る要所として、大老である酒井忠勝や柳沢吉保が城主に。特に有名なのが松平信綱で、彼の時代(1644〜1647)には川越城の大規模な拡張も行われました。以後、川越は譜代大名の拠点として、明治維新まで政治的にも重要な場所だったのです。

明治維新の後、明治4年には廃藩置県によって「川越県」が誕生しました。その後、明治22年の市制町村制の施行により「川越町」が誕生し、当時の戸数は2,813戸、人口は約16,150人でした。

ただし、当時の川越は商業都市として必ずしも順調に発展していたとは言えません。その一因として、舟運の発展があったため鉄道の敷設が後回しになってしまったことが挙げられます。しかしながら、川越の商圏は非常に広く、越生、飯能、青梅といった近隣地域にとどまらず、信州や甲州といった遠方まで含まれていました。これらの地域からの物産はまず川越に集められ、そこから舟運で江戸へと運ばれていたのです。

川越と国分寺を結ぶ「川越鉄道」(現在の西武新宿線)が開通したのは明治28年のことです。川越新田町(現在の本川越駅)から、入間川、所沢を経由し、国分寺で中央線に乗り換えて飯田橋までおよそ3時間かかっていたと言われています。

その後も交通インフラは徐々に整備されていきます。明治35年には川越馬車鉄道が開通し、明治39年には川越と大宮を結ぶ川越電気鉄道が運行を開始。これにより、東北線や高崎線と連絡し、上野まで約2時間で行けるようになりました。さらに、明治45年には東上鉄道が創立され、大正9年には現在の東武東上線が開通。昭和5年には国鉄川越線が大宮~川越~高麗川間で全線開通し、川越の鉄道交通網は大きく発展していきました。

大正11年に市制を施行した川越市は、近代都市としての発展を目指していましたが、当時は市域が狭く、人口の伸びも限定的で課題を抱えていました。こうした状況を打開するため、昭和14年に田面沢村を編入し、さらに昭和30年には周辺の9つの村を合併。これにより「大川越市」としての新たなスタートを切り、都市規模の拡大とともに、近代都市として急速な発展を遂げていくことになりました。