Point 4|川越の水辺と舟運の記憶:新河岸川と都市の発展

― 川の役割と都市成長、川越が物流拠点だった理由

「小江戸」として街歩きの人気スポットとなっている川越ですが、かつては“水の町”としても栄えていました。特に江戸時代から明治初期にかけて、新河岸川(しんがしがわ)は川越の物流と経済を支える重要な水路でした。

新河岸川は荒川水系に属し、現在では、狭山市内で入間川から分かれ川越市の北部を迂回、荒川本流とほぼ並行して流れ、東京都北区の岩渕水門の少し下流で隅田川と合流する河川です。

舟運当時の流路は、市街地より4km程東にある伊佐沼より流れ出して、川越城の近くに続いていたもう一つの流れと合流して、新河岸川となっていました。荒川を外川と呼び、新河岸川を内川と呼ばれていました。当時は現在の和光市新倉付近で荒川に合流していました。

この川を活用した舟運は、川越と江戸を直接結ぶ「水の道」として機能し、物流の要として大きな役割を果たしていました。新河岸川が始めて荷物輸送として利用されたのは、1638年(寛永15年)仙波の東照宮が大火により消失し、その再建資材を舟運を利用して運んだことからです。

陸路での江戸との距離がある川越では、物資の輸送に時間と労力がかかっていましたが、水運の発展によりその負担が軽減されました。17世紀中頃から本格化した新河岸川の舟運は、水量保持の工事が行われ、上新河岸、下新河岸、扇、寺尾、牛子に川越5河岸が設けられ、下流には、福岡、古市場、百目木、伊佐島、蛇木、本河岸、宮戸、根岸、新倉といった河岸場が次第に設けられて全長約30kmで荒川に合流して隅田川に注がれ、江戸の浅草・日本橋方面へと米、野菜、木材、雑貨などを運ぶ役割を担いました。

新河岸川の河岸場

船の種類には並船、早船、急船、飛切船があり、江戸時代に川越で最も贅沢とされていたのは、飛切船で運んだ新鮮な海魚を食べることだったと言われています。しかし、明治19年頃になると急船と飛切船は廃止されました。一般的な荷船である並船は終点の花川戸まで往復するのに7~20日程かかりました。早船は客船でした。急船は1往復、3、4日、飛切船2日という早さでした。

船の形は高瀬舟で、積載量は15~16トン(70~80石積、米俵で250~300俵)程で、川越方面からは米、麦、穀物、さつまいも、木材などを運び、江戸からは肥料や日用雑貨を運んでいました。

舟運が発展したことで、川越は江戸との物流ネットワークの拠点となり、城下町としての政治的な役割に加え、商業都市としての性格を強めていきました。川越の商人たちはこの水運を活用し、江戸の都市生活を支える商品を安定的に供給したことで、「江戸の台所」とも称されるようになりました。蔵造りの重厚な建物が立ち並ぶ街並みは、このような商業活動の繁栄と経済的豊かさの象徴と言えるでしょう。

明治以降、鉄道の発達や道路網の整備により舟運は次第に衰退しました。しかし、新河岸川沿いにはかつての河岸場跡や舟問屋跡が点在し、水運都市としての歴史を今に伝えています。現在でも川沿いを歩くと、水辺とともに生きた町の面影を感じることができます。
都市と川の関係は、単なる地理的要素ではなく、人々の暮らしや経済、文化を形づくる重要な基盤です。川越を訪れた際は、ぜひ新河岸川にも目を向けてみてください。そこには、江戸とつながっていたもう一つの「川の小江戸」の姿が広がっています。
舟運